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兵法家・孫子とその著作「孫子の兵法」

by jap

  兵法家・孫子とその著作「孫子の兵法」

孫子と言えば、兵法、兵法と言えば孫子と言われるほど、「孫子の兵法」は有名である。孫子は孫武の敬称である。

この孫武は孔子と同じ頃の人で、春秋時代末期に活動した人物であるが、いつ生まれ、いつ死んだのか、その年代は明らかではない。生まれたのは斉国。春秋時代の斉国と言えば、諸国の中の大国であり、今の山東省東北部を中心として勢力を張っていて、春秋時代初の覇者となったのが、この斉国の桓公である。

孫武はこの斉国の貴族の家に生まれ、その後、故国を去って揚子江下流の新興の国――呉の国へ移り住んだ。彼は呉の国の都・姑蘇――今の蘇州近くで晴耕雨読の生活を送りながら、兵法の研究と呉の国の政治動向を観察していた。

紀元前516年、呉王闔閭が即位した。それから4年後、闔閭は楚の国と一戦を交える決意を固めたが、優れた武将が見当たらないので、躊躇っていた。この時、大臣の伍子胥が呉王闔閭に孫武を推薦したのである。呉王は孫武に会ってみようと答えた。この時、孫武の政治の運命が決定された。孫武は書き綴った「兵法の書」を呉王に提出した。呉王の質問に孫武は答えて新しい独特の見解を展開し、優れた軍事的才能を披露した。呉王はこれにすっかり共鳴し、即座に孫武を将軍に任命したのである。

孫武は将軍に取り立てられた後、卓抜した功績を立てた。司馬遷の「史記」の中の孫武伝によると、「呉は西の強国楚を破って都の郢に入り、北は斉、晋を脅かして諸侯の間で名声を高めたが、これは孫武の力によるものである」と記している。こうして呉の国は晋の国に取って代わって覇者の地位に就いたのである。紀元前512年、孫武は呉の国の将軍に抜擢されてから凡そ30年の間、呉の国のために輝かしい戦功を立てたのである。その後、孫武の最後はどうなったのか、明らかではない、しかし、呉王闔閭に見出されて期待通りの活躍をした孫武は闔閭が亡くなってその子の夫差が王位を継いだが、夫差は絶世の美人・西施にすっかり溺れて遊蕩生活に明け暮れえているのを目にして、こうした君主に絶望したに違いない。「越絶書」の記すところによると、江蘇呉県の東門外に孫武の墓がある。孫武は彼の友人で大臣の伍子胥のように殺害の目に会うことなく、君主の下を去って隠者の生活に入り、人知れず世を去った可能性も考えられる。

では、次に「孫子の兵法」について話を進めてみたい。

「孫子の兵法」は13篇で、凡そ6000字余りとなっている。現在、目にするこの「孫子の兵法」は「三国誌」で名高い政治家で軍事家でもあった曹操が整理し、注釈を加えたものが元になっている。曹操は「孫子の兵法」の序文で、これまで幾多の軍事著作を読んできたが、これほど精緻で深遠な著作を手にしたことはない、と言って称賛している。これまで「孫子の兵法」を巡って様々な考証が行われてきた。兵法は13篇から成り立っている、いや82篇だとか、孫武は架空の人物ではないかとか。

1972年4月、山東省臨沂銀雀山一号漢墓から、「孫子の兵法」を書き記した竹簡が出てきた。この中から現在の13篇以外に新たに6篇の断片と「孫武伝」が発見された。又1978年7月、青海省大通県の漢墓から「孫子」の木簡が出土した。

こうして「孫子の兵法」13篇と孫武は実在の人物であったことが実証され、これらの研究が更に進めば、孫武の政治、軍事思想は新たな光を浴びることになると思われる。

ところで、「孫子の兵法」は春秋時代末期とそれ以前の戦争の経験、軍事思想、軍事理論を集大成したものと見られている。

次に「孫子の兵法」の内容について見てみよう。

孫子の兵法は、孫武の戦争に対する考え方、戦争観を示したものである。彼は言っている「戦争は国が生きるか死ぬかーー生死存亡の一大事である。最も慎重に考えなければならない」と。つまり、戦争の目的は自己保存にあり、完全な勝利をするころであるという考え方である。また、彼は戦争と政治の関係について、戦争で勝利をするには将兵と人民大衆の支持を得なければならないと説いている。孫武は戦争で勝利するには何よりも先ず、政治を第一とする見方を提起している。これは軍事思想史における大きな貢献である。

戦略戦術の面については、彼は次のように主張する。つまり、戦略の上では大きな勇気をもち、すべての敵を軽蔑し、具体的な作戦指導の時は慎重で注意深く行わなければならない、と。

作戦の方法について、彼は主張する。つまり、戦略的進攻を重視し、速戦速決、仮象を用いて敵を惑わし、小さな利益で敵を誘き出し、待ち伏せして殲滅する、と。

戦争を指導する際には、次のように主張する。戦争の主導権を握ること、こうしてはじめて不敗の地位に立つことが出来る。敵の動きに臨機応変、異なった戦法を用いることが肝要である。敵が準備しないいちに攻撃し、奇襲をかける原則を採用すること。これらの考え方、戦略戦術は後世の軍事家によって活用されたものである。

次に「孫子の兵法」は戦争の様々な客観的条件を大変重視している。戦争の勝敗は双方の5つの要素によって判断される、と説いている。5つの要素とは、一に道、つまり、指導者と人民大衆の心の一致。二に天、つまり、春夏秋冬の四季。3つは地、地理。4つは将、つまり指揮官、そして5つは法――軍の紀律編成など。これら5つの要素を検討して5つとも敵に優っている時には、戦争に勝利する、というのである。孫武は又将軍――指揮官を選抜する条件として、智、信、仁、勇、厳の5つを挙げている。

孫子の兵法はこのように戦争の客観的条件を重視しているが、その一方で人の主観的能動作用の発揮も強調している。

乱は治より生まれ、怯は勇より生まれ、弱は強より生まれる。つまり、軍はよく治まっている時、ちょっとした油断から乱れが生まれ、勇を誇っているとその裏で卑怯者が現れ、わが軍は強いと安心している時に弱さが出てくるものであると言って、相矛盾する現象に注目し、それが変化するものであることを指摘している。

孫子の兵法はこれまでの戦争の経験を総括して、その重要な法則を提出している。彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らずして己を知らざれば、殆うし。つまり、敵情を知り、また自分の力も知っている場合は百戦百勝する。敵情を知らないで自分の力だけ知っていて戦う場合は一勝一敗、五分五分である。そして、敵情も知らず自分のことも知らずに戦う時はその戦い毎に敗亡の危険に曝されるものである。孫子の兵法は敵の士気旺盛でやる気十分の時は戦いを避け、敵の士気衰え、疲労している機会を捕らえて攻撃することを説いている。

これらは戦争の法則に対する正しい認識であり、後世の軍事家が度々運用したものである。

孫子の兵法は政治教育と厳格な紀律、法令をもって軍を編成し、将兵に対する賞罰を活用すべきことを強調している。

以上、「孫子の兵法」の内容の一部を見てきたのであるが、13篇全体の叙述は簡潔で内容は哲理に富み、後世の軍事家に大きな影響を与えてきた。彼を知り己を知れば、百戦殆うからず、といった数々の名言名句は現代人にも教訓を呼び起こしている。「孫子の兵法」は中国だけでなく、海外にも紹介されており、遣唐使らと同行した留学生・吉備真備によって早くも奈良時代に日本へ伝えられ、18世紀にはフランスの神父の手によるフランス語の訳本が、20世紀には英語訳が、ついでドイツ語の訳本がヨーロッパで出版・紹介されている。(02/20)


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